2006年04月13日

アランが「イランはウランを選んでおらん」とカラんできた!?

とまあ、本記事のタイトルは当世早口コトバ?といったところか。たわいもない語呂遊び、と勘弁願いたい。

 > 挑発的言動の続くイランに関するCNN報道

虚衆の世では言った者勝ち、などと言う。声量の大きな者が、理詰めでかかるべきミーティングの議事をも左右させてしまう。野次や怒号が飛び交うわれらが国会における審議は、そうした理路整然とした討論に慣れない国民性の反映でもあるか。

話をはじめのイランに戻すが、ひところは『イラク情勢』などと(日本では自衛隊派遣の是非も絡んで)騒がしかったメディアの関心も、今やすっかり『イラン情勢』である。“勝ち組”軍事超大国アメリカの一元的世界支配はどこまで助長されるのか。北朝鮮、イランとこの理不尽なパワー・バランスに公然と食ってかかる過激な小国の名乗り出てはつぶされ、また次々と名乗り出ること名乗り出ること…

こういう冷戦以後の、ある意味、地球規模の単純な弱肉強食の構図が、現代日本の虚衆らの虚無感を繁茂させる苗床になっている。それは激化する一方の宗教摩擦や国際的な近隣憎悪の連鎖、地下深く先鋭化するテロリズムにも共通する要因だ。

誰かが圧倒的に勝っていることを前提とした『敗者同士のガマン比べ』による“平等感”は、常に相互監視足の引っ張り合い、それに魔女狩り暴力非暴力のリンチ社会を生む。それはもう不健康きわまりなく、ただただやりきれないものだ。まして、その積もる辛さを緩和すべく?“嫌敗”市民の関心を、このときとばかりに《国境》や《愛国心》に振り向けようとする政治は野蛮に過ぎ、「お下劣」だとしか言いようがない。
posted by 想定ペンギン舎 at 20:29| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月01日

いったい【コスト】の意味がワカっているのか

あいかわらず、実に馬鹿げた不祥事ばかりがニッポン社会のあちこちで頻発している。

そんななか、長引く『メール疑惑問題』を受けてようやく民主党“若手”執行部の総退陣が決まった。与党打倒のアドバルーンを高く上げようと焦るあまり、本来欠かしてはいけない党内倫理インフラの拡充に手を抜いた(あるいは軽視した)責任は重大だ。

話は変わるがスカイマークという航空会社。旅客機の整備不良がたて続けに明るみになり、物議をかもしている。十分な整備スタッフを社内で雇用することなく、安易に外注による“コスト”削減で経営の効率化を図ったツケだとも言われている。こういう根本的なマンパワー面の余裕の無さが、結局は取り返しのつかない結果をひき起こすことは、ナニもJR西日本の某脱線事故や、ごく最近の札幌の強度偽装マンション事件を引き合いに出すまでもなく、何度も何度も“立証”され続けてきたことである。

それでもなぜ、スカイマークに限らず経営者は手を抜くのか。民主党執行部に限らず、管理者は手を抜くのか?──そのあたりをちょっと考えてみた。

すると、近年われわれの生きる社会で『暮らしの質の低下』が指摘されることの裏側に、実はわれわれ自身の『誤ったコスト認識』が深く関わっているのでは?と思えてきたのである。
つまりである…われわれ虚衆には、そもそもコストの意味が本当にワカっているのだろうか? コストとは、費用だ。平たく言えば『生きていくのに必要なおカネ』だ。運営や営業、生活や暮らしに欠かせない出費、それがコストだ。

ところが。

いつどこで勘違い?したのか、虚衆の多くはコストを損失(ロス)と誤認している。『生きていくのを妨げるおカネ』だとアタマから信じきっている。コストこそが売上や生活を邪魔だてする障害なのであり、本来なら要らない出費だ。いかなる聖域もなく徹底的に削るべきだ!と信じて疑わない。

そういう短絡的発想はクレージーだ。どうか捨て去ってほしい。たしかに《不正に水増しされた、あるいは投下のやりかたにムダのある費用》は損失であり、たれ流しを絶つよう(=コストと偽って計上されないよう)最善を尽くすべきである。だが、それ以外の本当のコストは、(その結果得られる利益を考えれば)かかってあたりまえの費用なのであり、減らすことはできない。フツーに考えて減らせないモノである以上、減らしてはならない。

それでも本当のコストを省けば、たいへんなことになる。盲目的な出費カットは必ず(利益や結果の)量か質の目減りを招く。材料費や点検費をケチれば安全が脅かされるのは、その典型だ。さらにその結果としての(起るべくして起きてしまった)人災の発生例に至っては、前述したごとくまさに枚挙(まいきょ)にいとまがない。

だからこそ今われわれは、厳(げん)にコスト適正化に努めるべきなのであって、間違ってもコスト削減の悪魔に踊らされるべきではないのだ。にもかかわらず、ここ何年かの現実は(与党執行部が喧伝(けんでん)する規制緩和?推進策などの“追い風”も手伝って)、コスト敵視の風潮が社会全体を覆(おお)ってしまっているのではないだろうか。

かけるべき手間(コスト)までも省いて、同じだけの成果(利益)を得よう?というのでは、虫が良すぎる。その歪んだコスト認識は、逮捕された虚業家と少しも変わらない。
posted by 想定ペンギン舎 at 12:02| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

『不足の理』のスパイラルが虚衆を惑わす

社会の安定にとってコワいのは、(小泉首相に突かれるまでもなく)『格差』ではなく、そこから生じる感情のねじれ──すなわち、『下層』のレッテルを自分で自分に貼ってしまった人たちの『ねたみ』の連鎖である。

しばしば差別と区別は違う、という常套句がコメントとして登場する。その言い回しを使わせてもらうなら『格差ではない。“格区”のある社会づくりをしよう』ということになるか。経済水準というひとつ限りの尺度で国民を並べれば、格差社会が生まれる。格差のどこがイケないなどと、かの総理が不見識にも言った。イケないに決まっている。この単一ルールの勝ち負け思想こそが、社会人として厳につつしむべき絶対悪である。格差は、個別にあって当然のモノとは言え、あらゆる社会のアングルから眺めて同じ色合いで沈殿の進む社会は、単なる野蛮なジャングルでしかない。現在の与党は政治の政治たる仕事を放棄し、いわゆる《小さな政府》の美名の下、この国を節度も良識もない荒地に変えている。

最大野党ですら、昨今いろいろと批判されたように、“世の中が悪いのはみな与党のせい。圧倒的多数=与党は巨悪の巣。いつもわれわれを陥れ、自分たちだけ勝ち誇る。与党憎し!許すまじ!”という『ねたみ』の亡霊に憑かれたような言動をする。結局、政局は彼らにとって良い方向に転ばない。与党以上に国民の信頼を損ねる。これでは開ける展望も開けない。

さて、もともとは宗教用語?だろうか。『不足の理』という言葉がある。

先人は良いことを言ったものだ。何かが足りない。人より欠けている。自分は損をしている。不利な立場だ……こんな悲観的な考えばかりが先に立てば、その者の行動や言動はすべからく悪い方向へ傾く。ひがみ、うらみ、ねたみ、そねみ。こうした“ダークサイド”になびくことへの強い警告を、先達者らは発している。与党政治の弊害を除くには政権交代しかない、というのは『不足の理』に囚われた以外のナニモノでもない言い草である。倒閣や解散よりも、野党が存在しなければならない一番の使命を忘れたら、野党ならぬ野蛮党に堕ちてしまう。

たしかに政治は誤り、悪しき格差礼賛の暗黒が世の中を覆っている。しかし、だからこそこれと闘う者たちは、どんな局面でも『不足の理』のスパイラルに誘惑されない毅然(きぜん)さが求められる。
posted by 想定ペンギン舎 at 13:31| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(6) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

ニッポンは『想定の繁華街』

トリノ五輪がイマイチだ、成績不振だと嘆く人たちがいる。まるで集団ヒステリーに取り憑かれたかのように。

不振というのは、目論みに比した相対的な概念。一方、五輪とはメダルという獲得ポイントを稼ぐだけが目的の、薄っぺらなエンタメ行事ではない。なのにいつの頃からか、開催前に獲得数を想定する風潮が生まれた。予想メダル数、っていったいナンなのだ? プロ、すなわち商用スポーツでもないのに、(ましてや国民総出の賭博でもあるまいに)プレー前から他人の勝敗を占ってナンの得があるのだ?

ここに虚衆の深刻な『想定中毒』が見え隠れする。どんなことでもいい。何か先の“当り外れを読む”ことで、ささやかな知的スリルと興奮を味わい、日常のうっぷんやストレスを発散させるしかない。そんな陰鬱な、塞がりきった社会で競争に明け暮れて、どうか自分だけは苦痛もなく畳の上で死なせてくださいと願う、切羽つまった不安感。これが致命的な精神の弱さとなり、結果が見えないならやるな、もっと利口になれと、親は子供に、上司は部下に、まるでワカったような説教をたれる。

失礼ながら、そんな生半可の『想定』ごときで、未来のナニひとつ読めやしない。読めるハズがない。未来は常にゼロから築くのであり、そのためにはひたすら今を読み、今を生きるトレーニングだ。結果に埋没せず、見返りへの期待抜きに、ただ生き抜く強さを求めて一心不乱に繰り返す──そこに『想定』の邪念が入り込むすきまは無い。

虚衆は“当てにする”。いついつまでにこうしておけば、そうなるハズだから、ガンバろう。逮捕された虚業家も『想定中毒』だった。当ブログのタイトルに『想定ペンギン』を掲げたのは、こういう(ナニかにつけて)遮二無二努力してみる前に、手前勝手の胸算用ありき!?という種族に何らかの呼称が要ると思ったから。そして、自分を含む『想定ペンギン』たちが見果てぬ大地をぞろぞろと行進してゆく状況に対し、わたしなりに警鐘を発したいと思ったからなのである。

わたしは45年目にして立ち止まり、行列から離れようと思う。

彼らが目指すところ(そんな場所が本当にあれば、だけど。)とは違う、もっと別の何かに備えるべきときが来た。

もういい加減、想定していてはダメである。
いかなる理由であれ“当ては虚しきことなり”…それこそが弱さを生む。たとえば虚衆から脱却するにも、現在の成果第一主義への根強い、誤った理解や信奉心を正すしかないだろう。負けて悔いなし、と思える努力を礼賛すべきなのであって、思い通りに勝てた事例こそが幸福の見本であるかのように言いふらしてはならない。
posted by 想定ペンギン舎 at 10:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

カネがすべてのどこが悪い

よく『拝金主義』が世の中を腐らす、と言われる。
カネだけがすべてじゃない。それは間違いなく正論である。

ただ『カネがあればナンだってできる』のと『食うためのカネが要る』というのでは、カネに固執している感情の持つバックボーンがまるで違う。弱者切捨ての風潮のなか、生活苦や経営難にさらされている人たちからみれば、『カネがあればナンだってできる』とは思わないが『食うためのカネが要る』のだ。とにかくカネ、カネ、カネが欲しいのである。このように、カネがすべて、と思えることだけを指して、誰もが守銭奴と卑しめられることには問題がある。

さて、このブログで語ろうとする虚衆は、『食うためのカネが要る』ほど生活に困窮しているワケではない。ただ、『1円でも多く、カネはあった方がいい』という強迫観念にはとり憑かれている。何かにつけて、置かれた立場をカネに換算し、次の行動の損得を勘定する。一見、損したような行動を選ぶときですら、その裏には見返りとか、万一の保険として…などといったしたたかな計算(=いわゆる、下心)がフルに働いている。

まさに虚飾。まさに偽善。脱法的な“粉飾”は、多くの虚衆が身につけるズル賢さの典型的な例だ。オモテ向き善良な一市民を気どりつつ、日常生活では虚しい動機が最優先される。特にズルいのは、自分が悪者とは(人一倍)思われたくないので、自分のとった行動で損するかもしれない対象者が見た目にはっきり特定できないとか、あるいはまるきりの匿名で互いに面識を持たずに済むとか、最低でも、遠く離れた場所で自分と生活圏のダブらないエリアであったりすると、俄然『出し抜いて得してやろう』という行動に出るのである。同じ国なのに、同じ人間なのに、といった心遣いは虚衆のなかに存在しない。

こうしてみると、真に虚衆のナニが非難されるべきか?が次第に見えてくる。

それは『拝金主義』ではなく『免労主義』だ。労せずして得してやろう、地に根を張るのもほどほどにして実だけ頂戴しよう、という狡すっからい精神こそが、この世を腐らせるのである。“真の”虚業家とは、そんな虚衆の心のすき間を突いて『免労主義』を正当化し、免罪を与えるドリーム・メーカーのことを言うのではないだろうか。
posted by 想定ペンギン舎 at 18:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

受験育ちの功罪

虚衆はかつて受験生であった。もしくは、進行形の受験生たちである。

試験、試験。テストに次ぐテスト。人生の節目という節目には、いつも誰かに検査されてきた──運転免許をとるときも、会社に就職するときも、配偶者にプロポーズするときも。
そうした生活ばかりが繰り返し続くと、人間はどうしてもこう考えるようになってしまう。
──“検査にパスするまでは我慢してガンバろう。とにかく今は自分の嗜好を抜きに、ただパスすることだけを考えよう。”
こうした発想には必ずと言ってよいほど、次のフレーズが重なる。
──“それまでの辛抱だ。検査に通ればパァっと、好きなようにできるのだから”。

ほんの表層だけ見れば、どこにでもある“当たり前の”発想だ。当たり前のように深くも考えず、三菱ふそうの子会社はトラックを不正車検で通し、京大生は女性を集団暴行し、東横インはホテルを不法改築した。根本にあるのは、『そのどこが悪いの?』という受験生に典型的で率直?な疑問。
検査はいっときの審査でしかない。持てる知識や要件を詰めこんでいっきに突破すること、クリアすることだけに専念していればよく、その忍耐はすべて、通ったあとの《やりたい放題》のライセンスを獲得するため、という(傍目にはとても浅はかで)ズル賢い計算があるからこそ成し得るのである。
posted by 想定ペンギン舎 at 10:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

虚衆の何が「虚ろ」なのか

虚衆は、たとえるなら『ズルしないと損だ』という価値観に偏りやすい人たちのことである。この国では自分の人生の足を引っぱるさまざまな障害があって、のべつ規則や道徳を守っていたのでは満足に現状維持の生活すらできない。
そこで、マスコミやクチコミ、最近ではインターネットを通じて情報を集めまくり、労せずして収入や特権を得よう。そういうグループの一員になって、損を食らわないように“賢く”生きようと考える。
基本的には、自分だけが大事なのである。しかも、今の世の中は、誰かが貧乏くじを引くことによって、かろうじて成り立つ不平等な社会であると確信している。そういう、今では“ごくフツーの”考え方をする人たちのことである。かく言うわたしもその虚衆のひとりだ、と自信を持って言える。

損だけはしたくない。とばっちりを食いたくない。そうしたバクゼンとした恐怖心が生活の原動力になってるから、いかにも人生さびしく「虚ろ」なのである。そこまでの明確な自覚があって、ワカってはいても世の中への卑しい目線を抑えることができない。その空しさに囚われたくないために逃避することだって珍しくない。逃げ道は忙しさや慌しさということもあれば、非現実な趣味であったり、あるいは酒やギャンブルであったりする。それで返しきれない借金を背負い、かえって貧乏に直面することだってある。そうした行動パターンもまた、実に「虚ろ」である。
posted by 想定ペンギン舎 at 01:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

前がきに代えて

先日ある虚業家が逮捕され、マスコミなどを通じて日夜バッシングされ続けている。バッシングの次には忘却、忘却、さらなる忘却…。いずれ彼の名も市民の記憶から遠のいてゆく。
でも考えたい、それだけか? それで済ませて良いのか。それでナニごともなかったかのように、この国は清く正しく健やかに成長していけるのか?

絶対にそんなことはないと思う。いったい、ナニが若き経営者の虚業を(つかのまにせよ)あれほど成功させ、お調子に乗らせたのか?
このスキャンダルの底辺には、もっと根本的な、虚業家や詐欺師の扇動に浮かれやすく、現社会の閉塞感に不満を憶える人たちの増殖、という問題がある。
仮に彼らを“虚(むな)しき民衆=虚衆”と呼ぼう。虚衆はこれからも、この国のありようを動かしていく。そうした虚衆の生活を綴るべく、用意されたブログである。
posted by 想定ペンギン舎 at 00:22| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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