2006年02月26日

故事:イナバウアーの白ウサギ

昔々、あるところにフィギュアスケートの得意な白ウサギの娘がいました。ある日、彼女がトリノの大きな競技会を渡ろうとすると、彼女の足元をすくって演技をダメにしてやろうと、たくさんのキンチョウザメたちが岸辺に寄ってきました。

「ナニしにきた、小娘。白ウサギなんか気取りやがって」サメの1匹が言いました「この大会は黄色いアジアの豚どもが渡るところじゃないぞ」
白ウサギは言いました「わたしは他の白ウサギさんを押しのけにきたんじゃありません。向こうに渡りたいだけなの。でもわたしの力でメダルの岸にたどりつくには、あと10メートル足りないわ。助けてくれる?」
「ナンだって? 今の聞いたかよ兄弟?」別のサメが仲間に言いました「このウサギさん、助けてほしいんだとさ」
キンチョウザメたちの嘲笑(ちょうしょう)が、いっせいに白いスケートリンクにこだましました。
「豚にしては実力のほどをわきまえてるらしいから、場合によっては渡らせてやってもいい」やがて、頭領らしき1番大きなサメが言いました「足りない10メートルはオレさまの背中を渡れ。ただし、条件がある」
「それはナンなの? キンチョウザメさん」白ウサギは素直に聞き返しました。
「オレさまの背中では“目立つ”な!」サメは吐き捨てるように答えました「…それだけだ。オレさまのデリケートな背中を痛めるような渡りかたをしたら絶対に許さん。ジャンプやスピンなんてもっての他だ。少しでも得点を稼ごうなんて気を起こしたら、きさまはズデンと転んでトリノの底に沈む」
白ウサギは少し考え、やがってニッコリとほほえみ、言いました。
「ワカったわ。わたし、あなたの背中を傷つけない」

次の日、競技の順番が彼女に回ってきました。

スケートリンクには(観客や審査員には見えませんでしたが)きのうのキンチョウザメたちがあらわれ、彼女のためにお互いに連なって、背中の行列で長い長い“橋”をつくりました。
白ウサギはその様子を見届けると、サメたちの背中の上を滑りながら余裕の表情で演技をしました。ジャンプも決まり、エッジワークもカンペキ。見ていた観客からはやんやの喝采(かっさい)です。

後半、いよいよ頭領の大ザメの背中を渡るところに差しかかりました。彼女はそこを滑るとき、約束どおり、評価されることのないイナバウアーを演じました。彼の背中を傷つけるどころか、反り返らせた上体からリンクに伸ばした両手で、背中についたエッジの跡(あと)を軽くなでて行ったのです。
「サメさん、ありがとう」白ウサギは心の中でお礼を言いました「たとえこれでメダルは取れなくても、最後まで渡らせてくれてありがとう!」

彼女は大ザメの背中を滑りきると、ウレしさのあまり3回続けて見事なジャンプをしました。無事、メダルの岸に渡りついたときには、場内から割れんばかりの歓声と拍手。この白ウサギだけが、大きな失敗もなしに、トリノを渡りきったからです。次々に渡ろうとする他の白ウサギたちは、イナバウアーなんて評価の低い技は最初からバカにして試そうともしていませんでした。どのウサギも高得点ばかりを欲張って、結局、キンチョウザメたちに一瞬のスキを突かれ、食べられてしまいました。それだけに、彼女の優雅なイナバウアーが逆に(得点にはなりませんでしたが)その日の演技のなかで1番“目立って”いたのでした。

こうして白ウサギは、オソロしいキンチョウザメたちに1度も襲われることなく、世界で1番上手にトリノを渡ることができました。審査の結果が、金メダルだったことは言うまでもありません。めでたしめでたし。
posted by 想定ペンギン舎 at 15:08| 東京 ☔| Comment(4) | TrackBack(3) | 雑言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

ニッポンは『想定の繁華街』

トリノ五輪がイマイチだ、成績不振だと嘆く人たちがいる。まるで集団ヒステリーに取り憑かれたかのように。

不振というのは、目論みに比した相対的な概念。一方、五輪とはメダルという獲得ポイントを稼ぐだけが目的の、薄っぺらなエンタメ行事ではない。なのにいつの頃からか、開催前に獲得数を想定する風潮が生まれた。予想メダル数、っていったいナンなのだ? プロ、すなわち商用スポーツでもないのに、(ましてや国民総出の賭博でもあるまいに)プレー前から他人の勝敗を占ってナンの得があるのだ?

ここに虚衆の深刻な『想定中毒』が見え隠れする。どんなことでもいい。何か先の“当り外れを読む”ことで、ささやかな知的スリルと興奮を味わい、日常のうっぷんやストレスを発散させるしかない。そんな陰鬱な、塞がりきった社会で競争に明け暮れて、どうか自分だけは苦痛もなく畳の上で死なせてくださいと願う、切羽つまった不安感。これが致命的な精神の弱さとなり、結果が見えないならやるな、もっと利口になれと、親は子供に、上司は部下に、まるでワカったような説教をたれる。

失礼ながら、そんな生半可の『想定』ごときで、未来のナニひとつ読めやしない。読めるハズがない。未来は常にゼロから築くのであり、そのためにはひたすら今を読み、今を生きるトレーニングだ。結果に埋没せず、見返りへの期待抜きに、ただ生き抜く強さを求めて一心不乱に繰り返す──そこに『想定』の邪念が入り込むすきまは無い。

虚衆は“当てにする”。いついつまでにこうしておけば、そうなるハズだから、ガンバろう。逮捕された虚業家も『想定中毒』だった。当ブログのタイトルに『想定ペンギン』を掲げたのは、こういう(ナニかにつけて)遮二無二努力してみる前に、手前勝手の胸算用ありき!?という種族に何らかの呼称が要ると思ったから。そして、自分を含む『想定ペンギン』たちが見果てぬ大地をぞろぞろと行進してゆく状況に対し、わたしなりに警鐘を発したいと思ったからなのである。

わたしは45年目にして立ち止まり、行列から離れようと思う。

彼らが目指すところ(そんな場所が本当にあれば、だけど。)とは違う、もっと別の何かに備えるべきときが来た。

もういい加減、想定していてはダメである。
いかなる理由であれ“当ては虚しきことなり”…それこそが弱さを生む。たとえば虚衆から脱却するにも、現在の成果第一主義への根強い、誤った理解や信奉心を正すしかないだろう。負けて悔いなし、と思える努力を礼賛すべきなのであって、思い通りに勝てた事例こそが幸福の見本であるかのように言いふらしてはならない。
posted by 想定ペンギン舎 at 10:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月12日

詐欺スレスレの脱法商法は滅びない

昨春の「知的所有権(著作権)登録商法」告訴への司法判断が(まさかの?)不起訴処分となったことを受け、知的所有権協会がこのところ“元気”だ。

 >> 知的所有権協会の勝利宣言
 >> 当会批判の書き込みに対する対処について

その協会(内だけ)の認定資格である特許管理士、商標サービスマーク指導員、パテント秘書、デザイン管理士、特許調査専門員、知的所有権管理士、著作権管理士、著作権登録指導員に加え、今度はネーミング・ライターなる資格試験まで始めた。
もう、ナンでもありの暴走状態だ。

しかし。

別に、この協会のお墨付きを得ても大損害を蒙っただけだ、話が違う、訴える!という被害者連絡会のようなものが出来た、とは聞かない。そして現在のところ、豊沢豊雄氏や井上睦己氏らが創りあげてきた“民間支援サービス”を営利事業として明確に禁じている(という司法判断に足る)法律はまだない。火星の土地を買いませんか?という商法に誰も規制がかけられないのと、似たようなものだ。

この世の不公平感を呪わしく思い、一攫千金に未練がある市民が、虚衆としてうごめく社会──そこでは、バクゼンとした夢さえも売り買いされる。公営宝くじのように、ナンの採算性も要らない、可能性がある、今こそ参画しましょう!と出費なり行動を呼びかけることは、それ自体は罪ではない。可能性が最初からまったくゼロであることや、夢の成立根拠に明らかな嘘や違法事実の存在が、法的に実証できなければ。

心せよ諸君。詐欺スレスレの脱法領域は、時代のテクノロジーが加速する今こそ、無限大なのである。一度その広大さを知った虚業家は、何度逮捕されたとしても、必ずこの領域に帰ってくる。
posted by 想定ペンギン舎 at 19:35| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

カネがすべてのどこが悪い

よく『拝金主義』が世の中を腐らす、と言われる。
カネだけがすべてじゃない。それは間違いなく正論である。

ただ『カネがあればナンだってできる』のと『食うためのカネが要る』というのでは、カネに固執している感情の持つバックボーンがまるで違う。弱者切捨ての風潮のなか、生活苦や経営難にさらされている人たちからみれば、『カネがあればナンだってできる』とは思わないが『食うためのカネが要る』のだ。とにかくカネ、カネ、カネが欲しいのである。このように、カネがすべて、と思えることだけを指して、誰もが守銭奴と卑しめられることには問題がある。

さて、このブログで語ろうとする虚衆は、『食うためのカネが要る』ほど生活に困窮しているワケではない。ただ、『1円でも多く、カネはあった方がいい』という強迫観念にはとり憑かれている。何かにつけて、置かれた立場をカネに換算し、次の行動の損得を勘定する。一見、損したような行動を選ぶときですら、その裏には見返りとか、万一の保険として…などといったしたたかな計算(=いわゆる、下心)がフルに働いている。

まさに虚飾。まさに偽善。脱法的な“粉飾”は、多くの虚衆が身につけるズル賢さの典型的な例だ。オモテ向き善良な一市民を気どりつつ、日常生活では虚しい動機が最優先される。特にズルいのは、自分が悪者とは(人一倍)思われたくないので、自分のとった行動で損するかもしれない対象者が見た目にはっきり特定できないとか、あるいはまるきりの匿名で互いに面識を持たずに済むとか、最低でも、遠く離れた場所で自分と生活圏のダブらないエリアであったりすると、俄然『出し抜いて得してやろう』という行動に出るのである。同じ国なのに、同じ人間なのに、といった心遣いは虚衆のなかに存在しない。

こうしてみると、真に虚衆のナニが非難されるべきか?が次第に見えてくる。

それは『拝金主義』ではなく『免労主義』だ。労せずして得してやろう、地に根を張るのもほどほどにして実だけ頂戴しよう、という狡すっからい精神こそが、この世を腐らせるのである。“真の”虚業家とは、そんな虚衆の心のすき間を突いて『免労主義』を正当化し、免罪を与えるドリーム・メーカーのことを言うのではないだろうか。
posted by 想定ペンギン舎 at 18:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 序説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

お天道様は見ていない

BSA(ソフトウェア著作権保護団体)の指摘を受けた調査により、新潟大学と岡山大学でフォトショップ等数種のソフトウェアが大量に不正コピーされて流用されていることが判明した。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060201-00000249-kyodo-soci

これを現場の大学関係者はいったいどう捉えるのだろう。不正コピーは(おそらく)ほとんどの大学や研究機関で慢性的に行われているはずであり、1台のPCにインストールするために1ライセンスのパッケージを台数分だけ(つまり合法的に)購入しているとはとうてい信じられない。

すべては過酷な生存競争に打ち勝つため、経費削減、固定費圧縮といった強迫心理から生まれる虚衆の“熱い情熱”は、著作権保護という大義すら躊躇なく圧しつぶしてしまう。既に購入してあるパッケージがあるのに、となりの別のPCのためにもう1パッケージ購入することは“バカ正直”なのであり、“責務”とは感じない。生理的に、発作的に“浪費”、ひいては“誤り(ミス)”であり“損害(ロス)”であると感じてしまう。

こうした風潮の一方にあるのは、実際に罪状を挙げられ、捕まる連中は少数派(それも半端じゃなく圧倒的に少数)である、という現実だ。それゆえ、虚衆はこう考える──公にされた“違反者”は、お気の毒にたまたま運が悪かったのだ。たいていはバレやしない、やったもん勝ち、である状況には変わりない、と。
今やこれら“カシコい処世術”の向けられる先は、持ち込みゴミしかり、路上駐車しかり、横断歩道しかり、大なり小なり市民生活の全部、なのである。

決まりごとに一切のグレーゾーンは無い。捕まろうと捕まるまいと、お天道様はちゃあんと見ていらっしゃる……そう固く信じて毎日を暮らしている人が絶滅した国にわれわれは生きている。
posted by 想定ペンギン舎 at 11:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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